2006年1月1日


さっきまで家で酒問屋さんからもらったスパークリングワインを飲みながら、テレビを横になって見ていた。紅白、PRIDEと番組をグルグル。ただひたすら、ダラダラとしていたわけだ。酒飲んでダラダラと12時の時報を待っていただけのことだ。時報とともに、家族間で、あけましておめでとうことしもよろしく。それから、揃って、我が家の神棚へお参り。我が家は神道である。それから仏壇へ線香をあげる。神道でも位牌は仏壇に置くのだ。父の実家でも昔からなのだ。日本は神仏混合なのだよ。そしてそれから、家族の中の有志だけ募って、目黒円融寺に除夜の鐘を聞きに行き、お賽銭を投げ、お参り。ついでに少し歩いてサレジオ教会に行った。ぼくは信者ではないので、席には着かずに後ろで立って、ミサの様子を見て、聖歌を聞いて雰囲気を楽しんでいた。すると、ぼくの子供たちはスルスルと前に行き自然に席について手を合わせている。そうか、あいつら、教会の幼稚園だったっけ。洗礼を受けているわけではないが、教会に入ったらそのようにするのだと教わったのだろう。建築の勉強のためにイタリアを見て回ったとき、多くの教会を見た。実際の様子を見た方が良いと思って、ミサをしているときに入ったりもした。その時感じた雰囲気は宗教よりも伝統だった。そこで生まれて当然に自然に教会が日常の一部になっていくのだから当たり前のことではある。でも、ぼくはそうじゃない。父の実家のある部落(父の田舎では集落を村と呼ばずに部落と呼ぶ)でも、そこでの伝統的行事があり、当然、全員が参加する。伝統に帰属している(帰属していた)ということは、父にあっても、ぼくには無い。それは自由で気ままではあるが、伝統的生活っていうものを知らないということだ。故郷が無いってことだ。せいぜい何処からか帰ってきたときに、武蔵小山の駅の階段を降りるとホッとする程度だ。つまらないな。